a little light-8/27の日記

駅から職場に向かっているとき、かなしみがからだに戻った。ここ何日か離人感がある。ドラマを見ているような心地がする。このかなしみがじぶんの身に起きていることだと認められたとき、肩がぐっと重たくなって、フラッシュバックが起きる。それで、涙があふれて、こぼれて、立ちどまってしまった。じぶんを責めたてる。お守りのような言葉も効かない。「大丈夫ですか」という声が聞こえる。謝る。踵を返す。もうこの街にいたくない。思い出がわたしを潰す。「辞めます」という身勝手な連絡をして、ベンチで声を殺して泣いた。耐えるべきだったのだろう。でも、耐えているあいだにじぶんの大事にしているものまで傷つけてしまうなら、もう耐えなくていいと思った。

 

逃げよう。海に行こう。

須磨駅まで約二時間。目を瞑った。もう映像は浮かばないのだけれど、父と母と三人で須磨へ行ったことを思いだす。2006年5月、神戸に越してきたばかりだった。幼いながら、こころには不安やさみしさがあった。それを見かねた両親が海に連れていってくれた。わたしには二つちがい(と七つちがい)の妹がいる。妹を保育園に預けて、三人で出かけた。後にも先にも三人で出かけたのはこの日だけだ。海で何をしたのか何を話したのか、もう何も思いだせない。いつも〈たのしかった〉というきもちだけ思いだす。いまも暮らしが行きづまったとき、須磨に足を運ぶ。同棲のために滋賀に越してからは一度も行かなかった。なにせ遠いから。

 

須磨駅で降りる。海のにおいだ。

わたしには須磨の海へ行くルートが二つある。須磨海浜公園駅で降りるか、須磨駅で降りるか。須磨海浜公園駅から海までは歩いて十分ほど。だから改札を出ても海のにおいはしない。このルートを選ぶのはひとりになりたいときだ。須磨海浜公園駅側の海のほうがしずかなのだ(水族館がリニューアルされたり、スタバができたりしたのでいまはちがうかもしれない)。須磨駅のルートを選ぶのは快速に乗ったときとひとりになりたくないときだ。須磨駅の改札を出たら海が見える。みんなまずはそこから写真を撮る。

 

日傘を差して砂浜を歩く。日差しが強い。濡れた砂と濡れていない砂の境界線を歩く。波が境界線を越えそうになったら逃げる。おっ、新記録。水に浸かっているひと、からだを焼いているひと、遠くから海を見るひと。人がいると妙に安心した。どれどれ、水を触りたくなってしゃがむ。なかなか波がやってこない。さっきの威勢はどうした? ざあ、ざあ、ざあ。

 

Excuse me!

声のほうを向く。英語を聞く。iPhoneを渡される。写真を撮ってほしい、ということか。「OK」と答える。わたしは英語がまったくできない。水色のストライプのワンピースを着た、髪の長いひとだった。縦でも横でも写真を撮る。そのひとはくるくるとポーズを変える。ふりかえる。手をひろげる。ピース。なんかたのしい。でも、こういうとき英語でなんと言うのか知らないから、笑って、おおいに頷く。伝わっているといいな。Thank youと去っていた。

 

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束の間、かなしいことを忘れていた。

かなしい時間はどこまでもつづいていくような気がする。終わりが見えず、ずっと泣いている。ほんとうは終わりなんてないのかもしれない。かなしみはポーズを変えながらこころにありつづける。次から次へとやってくる。泣いて、泣きやんで、また泣いて、生きるのだ。でも、かなしみとかなしみの間には小さなひかりがある。よろこび・しあわせ・気づき・諦め、そういうもの。じぶんで灯すこともできるし、誰かが灯してくれることもある。

 

それからも、アイスコーヒーを飲みながら泣いて、電車のなかで泣いて、泣きながら夜眠った。起きてから、前の日の日記をつける。かなしみと小さなひかりを記録に残す。

 

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