どんくさく生きてください
はらわたが煮えくりかえるとはこのことか。からだが熱い。でも、怒りをぶつけるのはやめようと思った。じぶんの気持ちよさのために人に怒りをぶつけるのは虚しいと知っている。それに、わたしと父を出しにして、気持ちよく驕っているこのひとと同じようにはなりたくなかった。
いとこの家に行った。叔父と叔母[父の妹]と話した。
はじめは「おにぃ[わたしの父]に似てるな」と言われてうれしかった。わたしが父との思い出を語れるのはここしかないから、姿形はなくても、わたしのこころのなかにいてくれるような心地がした。しかし、こころの傷を打ち明け、悩みを話していくなかで、「似ている」と言われつづけ、さらには「おにぃと話してるみたい」「ももこはおにぃと一緒」と言われ、わあ、これは呪いだ、と思った。
わたしの父はアルコール依存症だった。死に際の生活はひどかったと聞いている。最後までお酒をやめられなかったらしい。今年の2月に肝硬変で亡くなった。大腿骨は壊死していた。
親子だから、性質上似ている部分はある。しかし、わたしは父ではない。父と似ていない。父と過ごした17年(22歳のわたしにとっては長く、あと60年ほど生きるわたしにとっては短い時間)で教わった方法で物事を捉えているのだ。それは、時にネガティブな方向に作用するが、人生をおもしろくするエッセンスであり、文章を書くときに大いに役立っている。似ているのではない。わたしが真似ているのだ。じぶんでかける呪いと人にかけられる呪いは違う。「あなたはこうだ」と言いつづけてしまうと、ほんとうにそうなってしまう。
叔父に「お前には感性がない」「どうせ趣味とかないんやろ」「飲み会で冷めたこと言いそうやな」などと罵られた。人より優位に立っていないと気が済まないのか。「えーそうかな」と笑いながら聞いた。わたしはネガティブだと周りのひとからよく言われるので、助言をしっかり聞こうと思っていたが、あほらしくなった。このひとの物事を見る目は心底つまらないと思った。
それからたんと父の悪口を聞かされて、お腹のなかでジャイアンシチューよりも邪悪な色の液体が煮えたぎっていた。たとえ父の言動が悪くても、父の人柄や感性、こころの傷までも否定されることが気に入らなかった。もう死んだのだ。死人に口なしだ。この悪口を聞いたゆうれいの父は、反論も謝罪もできない。第一、父がアルコールに依存してしまうまで、わたしたち家族がくたくたになってしまうまで、父の傷に目を向けなかったひとに悪く言われたくない。もっと強い言葉で言うなら、あなたにそんな権利はない。
死んだとき、手続きのために戸籍謄本を出して、父の出生地を知った。思い返せば、あまり父の生い立ちを知らない。知っている情報を集めて、父のことを思うと、ずっとさみしかったのではないか、という結論に至った。人や仕事に依ってみたけれど、満たされない何かがあって、行き着いた先が酒だったのかもしれない。酒に依存して、いろいろなものを壊し、傷つけた父を擁護するつもりは毛頭ない。叔父や叔母が父を悪く言うのは無理もない。しかし、父の傷を度外視して、死んでからも悪く言うのはあまりにも可哀想だと思った。
15歳のとき、死にたいと思った。荒れた家から解放されたかった。母に手を上げる父と目を合わせて「落ちついて話そう」となだめる。泣きわめく母の背中を毎晩さする。こわいと怯える幼い妹の手を握りつづける。生きる意味がわからなくなった。じぶんの価値がわからなくなった。両親のことが許せなかった。いまも許せない。わたしはたらふく親の悪口を言ってきたし、胸の内で呪ってきたし、よそのひとの事情を考慮せず人を羨んだし、じぶんがいかに可哀想な人間か人に主張したこともあった。でも、ずっと満たされなかった。ずっとさみしかった。
死にたいと思うとき、とてもさみしいのだ。わたしに刃物を向けた父もこんなきもちだったのだろうか。脅しでも、パフォーマンスでも、殺意でもなくて、さみしいと言いたかったのだろうか。
何でもないつまらない日に本を買ってくれたこと、夜中にふたりで流れ星を探しに出たこと、テスト前日に紙で立方体を作って問題を解いたこと、いろいろ難しいねえとコンビニの前でアイスを食べたこと(あのとき買ってもらったキウイ味のアイスが頗るまずかったこと)、「17歳のお誕生日おめでとう」のLINEを無視したこと、合格祈願のお守りを受け取らなかったこと、二十歳の誕生日に手紙を送らなかったこと、最後にどんな会話をしたのかもう思いだせないこと、最期に話せなかったこと。
もう形のない父に何もしてあげられない。何も返せない。でも、父がしてくれたことをこの世で覚えておくことはできる。死んでからも悪く言われるなんて、ほんとうにどうしようもないやつだと思いながら、父を肯定する。この世で父を肯定できるのがわたしだけなら、わたしは死ねない。使命感はない。しょうがないなあというきもちだ。父は死んだ。当然、新しい繋がりが生まれることはなく、死に際のひどさだけが人のこころに残ってしまうかもしれない。誰も父を肯定してくれないかもしれない。でも、少なくともわたしは父を肯定できる。
それはわたしが娘だからでも、やさしいからでもありません。あなたがわたしにたくさんのものを与えてくれたからです。書ききれないくらい、書きあらわせないくらいたくさん。たった17年でこんなにもたくさん。あなたが与えてくれたものがわたしをそんなきもちにさせるのです。これがあなたの人生の功績です。あなたとわたしが似ているのならば、あなたはなかなかじぶんを肯定できないと思いますが、ちゃんと、たしかに、成し遂げたことがあり、それは讃えられるべきです。わたしが讃えます。もし、まだこの世を彷徨っているならば、この言葉を確と胸に刻んで、天国へ行くなり、地獄へ落ちるなりしてください。もし、どちらへ行くか選べるならば、じぶんを責めずに天国へ行ってください。わたしも60年後、天国へ行きます。そうして、会わなかった65年分の話をしましょう。
つよいつよい横風が吹いた。わたしはいまトンネルを抜けたのだ。7年かかった。死にたいと思ってしまった日から、真っ暗なトンネルを歩きつづけた。暗いから見えなかったもの、落としても拾えなかったものがある。わたしはいまどんな姿なのだろうか。トンネルを抜けるために必要だったのは、よろこびやかなしみだけでなく、どうしようもないくらいの強い怒りだった。歩いた先にトンネルの終わりがあったのではなく、わずかなひかりが見えた瞬間、ここから抜けだすために出口まで必死に走ったのだ。こころのなかで汚い言葉を吐きながら。
最後に会ったとき危篤状態だったので、最期の言葉はなかった。記憶のなかの言葉は、何度も思いだすなかで、わたしが都合よく変えてしまったかもしれない。12歳の誕生日に最初で最後の手紙をもらった。唯一、形として残っている、不変の言葉である。「これからも、ももこらしく?どんくさく生きて下さい。」と結んであった。しょうがない。どんくさく生きていくか。
