むらさきいろの湯呑み

12/30(月)晴れ

もう一杯飲もう、と湯呑みを持って台所へ向かう。底を撫でたらぬめぬめしていた。デスクについていたぬめぬめの正体はこれだったのか。てっきりマルタイラーメンの汁か何かをこぼしたのだと思っていた。ぬめぬめの出どころを考える。買ってから、値札シールを丁重に剥がし、洗剤で洗って乾かした。高野豆腐を作って入れて食べた。台所で水を入れて、電子レンジで四十秒温めた。即席白湯である。ああ、電子レンジか。扉を開けてターンテーブルを触る。ぬめぬめだ。匂いから察するに、高野豆腐だ。たしかにできあがったとき、なぜかボウルの位置がずれていた。ターンテーブルがうまくセットできておらず、こぼれたのかもしれない。

 

(ここでマルタイラーメンに高野豆腐というなんとも言えないつけ合わせの食事をしていたことが明らかになる。)

 

昨晩からひとり暮らしがはじまった。もう既に、こういうミスを何度かやっていて、その度に頭のなかでサカナクションの「ショック!」が流れる。電子レンジのなかを拭きあげ、ターンテーブルを洗い、水を温める。今日、むらさきいろの湯呑みを買った。

 

昼ごろに、炊飯器と電子レンジと洗濯機が届くらしい。午前のうちに買いものを済ませることにした。商店街の100円ショップのドアがひらかない。開店まであと五分ほどあるらしい。すこしだけ、商店街を進む。陶器店を見つけて入る。

 

大正筋商店街のことを思いだした。それは神戸の新長田にある。新長田には幼いころ二年だけ住んでいた。この二年(と同棲していた半年)以外はずっと同じ街で暮らしていたので、新長田という地はわたしにとってどこか異質なものである。陶器店でプリキュアのうつわを見たシーンが頭のなかで流れる。ほんとうは神戸でひとり暮らしをしたかったのだけれど、神戸から通う上司が「遠い」と週に二、三度嘆いているので、一旦諦めた。

 

店の奥へと進んだ。マグカップを探していた。以前、スターバックスのステンレス製のマグカップをいただいた。ももいろで、持ち手がハートのような、花びらのような形になっていて気に入っている。唯一の欠点が〈電子レンジ不可〉である。コーヒーを淹れて、二度寝することがしばしばあり、適当なマグカップに移しかえて温めなおしている。だから、もう一つマグカップ〈電子レンジ可〉がほしかった。

 

それは〈湯呑みにも小鉢にも使えます〉と書いてあった。ぽってりとしたまるいフォルムで、手触りもいい。ほかの色もあった気がするが、むらさきいろに惹かれた。新長田に住んでいた四、五歳のころ、むらさきいろがすきだった。おそらくキュアイーグレットの影響だろう。ともだちはきいろがすきだった。「おかあさんが『むらさきがすきなひとときいろがすきなひとはあいしょうがいい』っていってた」とその子は言った。いちばん仲がいいと思っていたので、うれしかった。いま思えば、補色の関係にあるということだ。

 

新居の壁はきいろだ。部屋に入って右手の壁がきいろで、あとはよくある白だ。きいろのなかでも、たまごいろと呼ばれるような色である。内見は夜だった。照明がついていなかったので、iPhoneのライトで照らしながら部屋を見せてもらった。壁のことは気にしていなかった。鍵をもらってからカーテンの長さを測りに行ったときに気づいてショックを受けた。ターコイズブルーのカーテンにしようと思っていたのだ。オンラインストアで写真を見て、カーテンを通った光の差し方が美しく、もう絶対これ!と思っていただけにショックは大きかった。わたしは、ターコイズブルーとたまごいろを使いこなせるほど洒落ていない。ホワイトのカーテンを買った。

 

ならば。と開きなおり、アクセントにきいろのアイテムを置くことに決めた。これまでの人生できいろを積極的に選ぶ機会はなかった。なんか、いいかも。次第にそう思うようになっていった。

 

きいろの補色であるむらさきいろの小鉢を買った。この小鉢に副菜を入れようと高野豆腐を買った。作って、入れて、食べた。小鉢として使うつもりだったのに、湯呑みとしても使ってみたくなった。水を入れて、電子レンジで温めた。デスクに座り、白湯を飲みながら、ウェブサイト用の絵を描いた。ふとiPadから視線を外したとき、むらさきいろのものが目に入る。この連休が明けたら、残業と文フリの準備に追われて、きっとまた忙しなく過ごすのだろう。ブラックコーヒーとレッドブルをがばかばと飲む暮らしがはじまる。何かに追われているじぶんがすきだ。でも、がんばりすぎたらまたどこかで躓く。忙しない日々のなかでこのむらさきいろの湯呑みで、白湯やお茶を飲む時間があれば、より暮らしを愛せるようになる気がする。これは湯呑みにしよう。また別の色を買って、それを小鉢にしよう。わたしのための暮らしがはじまる。