手ごろな岐路
14:26 電話が鳴った。
電話が切れるまで待つ。知らない番号からの着信はむやみに出ない。履歴から番号をコピペして検索をかける。あっ採用だ。先日、面接してもらったドラッグストアからだった。にまにましながらかけ直す。話はあっさり終わり、今日の18時に手続きをしましょう、ということになった。yogiboもどきに顔をうずめる。よろこびを噛みしめている。
14:58 また電話が鳴った。
さっきとはちがう番号だった。同じように電話が切れるのを待って、検索する。ドラッグストアより前に面接をしてもらったベーカリーからだった。かけ直して辞退を申し出る。面接のとき、ここでは働きたくない、と思った。店長の高圧的な態度が気に入らなかった。わたしはそういうやつがきらいだ。ここで働けば、わたしのおだやかな暮らしが脅かされる、そう思った。採用の連絡があれば、辞退するつもりだった。でも。実は、なかなかドラッグストアからの連絡がなくて、〈もうだめだ〉と思っていた。だから、電話の順が逆だったら、ほんとうに辞退したか、確信がない。
こういうわかりやすい岐路に立ったとき、こころが震える。暮らしのなかに岐路は山ほどある。じぶんで選べるものもあれば、じぶんで選べないものもある。意識できるものもあれば、無意識のうちに進んでいるものもある。
例えば、降水確率50%、雲が多い日。
洗濯物を外に出すか、部屋に干すか悩むだろう。これはじぶんで選べる岐路だ。うちのベランダには屋根がないから、わたしは部屋に干すことを選ぶと思う。そうして出かける。あら、ざんねん。一度も雨が降らなかった。それどころか晴れ間も見られた。あのとき、外に出せばよかった、そう思うだろう。部屋干しを選んだ時点ではもちろん、雨が降らないことを予想できても予測はできない。外に出すことを選択したとしても、雨が降らない未来だったかどうかわからない。つまりは、選ばなかったほうの未来を知ることはできず、あのときあの選択をしていたら、と妄想するのがたのしいのである。
手ごろな岐路がある。くら寿司の「ビッくらポン!」というサービスである。
食べた皿を回収口に入れ、五皿入れるごとに「ビッくらポン!」が回せる。タッチパネルにアニメーションが流れる。キャラクターたちが徒競走や金魚すくいをしている。金魚すくいの映像はもう何度も見た。何度も落胆した。一発で掬えたときはポイに穴が空いて、金魚が落ちる。それが「はずれ」。金魚すくいの映像での「あたり」がどのようなものだったか思いだせないほど、「はずれ」の映像を見ている。最近は確定演出の映像なんかも出てきた。
当たれば景品がもらえる。景品は席の上にあるガチャガチャから出てくる。こどものころ、立ち上がって景品を取るとき誇らしい気持ちになったものだ。いまは景品がほしいわけではなく、ただ当たりたいだけである。なんでも当たると気分がいい。
この岐路はじぶんでは選べないものである。
N皿目では「あたり」の世界か「はずれ」の世界かのいずれかしか存在し得ない。N皿目で外れた場合、次のN+5皿目の「ビッくらポン!」を回したいがために、追加で食べることがあるだろう。当たった場合、景品をもらえたことに満足して、食べる手を止めることもあるだろう。岐路でどちらの世界に行くかによって、今後の行動や気分が変わってくる。そんなの暮らしのなかぜんぶそう。でも、じぶんではどうすることもできない力でじぶんの世界が変わっていく瞬間を目の当たりにできるのはかなりおもしろい。
「ビッくらポン!」は手ごろな岐路で、わたしはくら寿司に行くことを非常にたのしみにしている。