ひみつを捨てる
ビルのあかりを見て「十月が終わる」と思った。ネットに日記をあげるようになって、一年が経とうとしている。一年間、人に見せるための日記をつけた。大抵、週のはじめに公開する。見せたくなかった週と、全く書かなかった週が一つずつある。すべてを公開したわけではないが、とまれかくまれ一年経ったのだ。
日記の前はエッセイをあげていた。ネットに文章をあげるようになってから、嘘を書かないことをいちばんたいせつにしてきた。じぶんのことを書くのだから、嘘を書けばそれはもうわたしのエッセイや日記ではない。記憶ちがいや妄想はあれども、じぶんのこころにないことは書かない。
嘘は書かなかった。しかし、書かないというやり口で嘘をついた。嘘は書かなかったが、嘘をついた。どこか後ろめたさがあった。角を曲がって、より賑やかな街へ向かう。あかりをよそに俯く。書かないことは、嘘をつくことではなく、こころに秘めることだ。それは嘘ではなくひみつだ。そうだ。わたしはひみつを捨てられないひとだった。
あなたはいま熱気球に乗っています。ところが、気球の高度が下がりはじめました。助かるために荷物を捨てる必要があります。その荷物は「権利」というもので、10個ありました。どれから順に捨てていきますか。
ア)きれいな空気を吸う権利
イ)遊べる(休養できる) 時間を持つ権利
ウ)自由にできるお金をもらう権利
エ)自分のやりたい勉強ができる時間(権利)
オ)みんなと異なっている事を認められる権利
力)正直な意見を言い、それを聞いてもらう権利
キ)いじめられたり、命令・服従されない権利
ク)私だけの部屋を持つ権利
ケ)毎日、十分な食べ物とキレイな水を得る権利
コ)愛し、愛される権利
これは「権利の熱気球 注1)」という人権教育で使われる題材だ。この授業を小学六年生にときに受けた。「権利」というものを理解していたかどうかわからないが、強く印象に残っている。というのも、グループワークで「こいつ変やな」という空気が流れたからだ。わたしは10個目に「私だけの部屋を持つ権利」を選んだ。この授業では「ひみつ」と言い換えられていた。権利を捨てなければ気球は落ちる、落ちるということは死ぬ、死ぬということはひみつは守られる、ならば最後まで捨てたくないと考えていた。わたしにとって、ひみつというものはそうしてでも守りたいものだった。
日記をつけはじめたのは十歳のときだ。きっかけは覚えていない。A5サイズのルーズリーフに書いてバインダーに挟んでいた。絵もつけていた。毎日つけるものだから学習机の上に置いていた。いま思えば管理が甘かった。親に日記を読まれてしまった。机の引き出しにしまっても読まれた。どうして読んだことがわかるのか。日記にしか書いていないことを親が知っているからだ。「読まないで」とは言えなかった。日記の内容を小突かれるのがこわかった。それに、わたしはあまりじぶんのことを話さないこどもだった。しかし、ひみつを侵されたことはかなしかった。バインダーに挟んでたいせつにしていたのも、絵をつけて可愛くしていたのも、全部じぶんのためなのに。
わたしがスマホを持たせてもらったのは、LINEの普及率がぐっと上がったころで、仕方のないことだったが、スマホのなかも隅々まで見られていた。わたしは次第にひみつというものに執着しはじめた。誰にもほんとうのじぶんを知られたくなかった。
中学生になり、机の引き出しの鍵を渡された。きちんとお金の管理をしなさい、ということだった。鍵をなくすと厄介だから、とずっと親の手元にあった。晴れて、ひみつの空間ができたのである。引き出しには、日記、書いたけど渡さなかった(けど出来はいい)ラブレター、元気がなくなったときに読むじぶんへの手紙、あとはお金が入っていた。わたしにとってのひみつは言葉だったのかもしれない。
いちばん盛んに日記をつけていたのもこのころだった。ウィークリー手帳に三行だけの日記をつけていた。いまの日記のような景色や会話の描写は一切なく、誰にも言えない・言わないきもちを書きなぐっていた。汚い言葉もたくさん使った。それは不安定な思春期の救済だった。
高校生のとき、いままでの日記をすべて捨てた。精神がひどく不安定な時期で、ひみつを残しておくのは危険だと判断した。それ以降の日記はすべてデータである。データは表面上、ボタンひとつで消せる。もうひみつを守らなくていい。はなからなかったことにしよう。そう思っているうちにわたしはこころに鍵をかけてしまった。
二十歳ごろ、ネットにエッセイを載せはじめた。じぶんの表現というものを試してみたくなった。嘘は書かなかった。嘘はおもしろくないから。書くことにのめりこんだ。書けば書くほどこころの曇りが取れるような心地がした。
あなたはいま熱気球に乗っています。ところが、気球の高度が下がりはじめました。助かるために荷物を捨てる必要があります。その荷物は「ひみつ」というもので、数えられないほどあります。どれから順に捨てていきますか。ただし、すべて捨てる必要はありません。
人にエッセイや日記を見せることでわたしはひみつを捨てていった。それは曝けだすことではない。ほんとうのじぶんが知られることでもない。ひみつを捨てること、それはこころを開いていくこと、人と一緒に生きていくということ。人とひみつを共有すればそれは内緒の話になる。
【参考文献】
注1)尼崎市立教育総合センター「第4学年人権学習指導案」(2024年11月2日アクセス)
書きながら思いだしたこと